王子、錦織圭さま [ひとがら]
テニス全豪男子シングルスで日本選手として80年ぶりにベスト8入りした錦織圭さまが次の目標に4大大会優勝を掲げました。10日からは兵庫ブルボンビーンズドームでワールドグループのクロアチア戦に出場するそうです生試合を見てみたいです。
ニュースによると圭さまは頬を赤らめ照れ笑いを浮かべながら、グランドスラムで優勝したいと大きな夢を目標に語ったそうです。
ちなみに大会後の世界ランキングは26位から20位に浮上。早くトップ10に早く入りたいと意気揚々です。人柄もよさそうだし、非の打ちどころがありません。すべてがかっこいいですね。
がんばれ吉本芸人 [ひとがら]
吉本興業が四十七都道府県に芸人むを住まわせて、地域密着型の活動を展開するプロジェクトで、芸人たちが担当県に出発します。被災地へ向かう芸人たちは「こんなときだからこそ、ぼくたちが地域を盛り上げたい」と意気盛んです。岩手県担当のアンダーエイジ熊谷由輔さんは同県花巻市出身で、コンビを組む山形市出身の結城多聞さんと実家に住んで活動。家族は無事だったが、「余震があり、年老いた両親や祖父母が心配。そばにいてあげたい」と地震後にUターンを決意したといいます。
既に地元テレビの情報番組にレギュラー出演が決まっており、「おばあちゃんが泣いて喜んでくれた」。県外出身の結城さんが尋ねて地元の熊谷さんが教える、宮沢賢治などご当地ネタのコントも準備しているよう。しばらくは避難所など被災地の慰問が仕事といいますが、二人は逆に、岩手の元気な姿を全国に伝えることもしていきたい」と話したそうです。
東京から二十三組が出発。セレモニーでは一組ずつ抱負を述べて、キム兄こと木村祐一さんら先輩芸人から激励を受け早速、現地のテレビ番組に出演、十五日には慰問活動をするそうです。がんばれ吉本芸人
松原勝久 先生の 被災地支援ニュース [ひとがら]
東日本大震災が発生してからちょうど2か月です。講師の松原勝久先生の被災地支援のニュース報道がありました。仙台市では、被災した幼稚園の子どもたちを励まそうと貼り絵が被災した幼稚園に届けられました。震災からよみがえるの意味をこめた「かえる」の貼り絵、富山県内の園児の手作りです。 子どもたちは現在、遊技場につくられた仮の教室に通っています。贈られた貼り絵にはゆっくり進んでいこうなどの応援メッセージが書かれていて園児たちは、思いがけない励ましのプレゼントに笑顔を見せていました。松原勝久先生、ほんとうに、ご苦労様でした。
靴と薬を被災地へ ! 松原勝久先生お願いします。 [ひとがら]
講師としてお世話になっている松原勝久さんが、今回も震災の被災地支援をされています。靴と薬と衣料が必要という事をお聞きして早速氷見商工会議所に届けました。私は現地に行く事は出来ませんが自分の出来る支援をして行きたいと思います。
チューリップニュースとかず坊さんのブログをペーストしました。
東日本大震災では今なお、多くの被災者が避難所での生活を余儀なくされています。
そんな中、19日、氷見市の民間ボランティアグループが宮城県に救援物資を届けました。
予想以上に物資がない現状に、さらなる支援の必要性を痛感したといいます。
氷見市の松原勝久(まつばら・かつひさ)さんらのボランティアグループは18日に氷見市を出発。
食料や衣類などの救援物資をもって19日、宮城県気仙沼市の避難所である気仙沼高校を訪れました。 きっかけは、松原さんの友人からの支援を求める連絡でした。
うどんの炊き出しを行うとあっという間に長蛇の列です。
こちらの避難所で、4日間のうち支給されたのはパン1個と水のペットボトル1本。
19日現在で、ほとんど救援物資が届いていませんでした。
松原さんらは、知人からの依頼で石巻市の避難所も訪問。
被災者のみなさんは、福島第一原発事故のニュースも知らない中で支援を待ち望んでいました。
2日間にわたって避難所を回った松原さんは、現地のリーダーと連絡がとれれば、富山から足を運んでするべき 支援はまだまだあると訴えます。
時間が経つにつれ、必要な救援物資も変わってきます。
隊長の松原勝久さんは現地と連絡をとりながら、今後も官民一体となって長い目で支援を続けていく必要があると語っていました。
今月18日から20日にかけて、氷見市の男性ら有志が宮城県に支援物資を届けました。
避難所には少しずつ物資が届いているとされますが、実際には全然違ったといいます。
松原勝久さん「行ってよかったというのがまず一番目の気持ちですけど」
今月18日朝、有志7人が支援物資とともに氷見市から宮城県に向かいました。
発起人の松原勝久さんが気仙沼市の友人から要請を受けたからです。
深夜にたどり着いた気仙沼高校では、その友人、坂井政行さんが待っていました。
そして、体育館の隅にあったのは…「空箱の山の状態です。本当に空箱です。あぁ、空箱や」
食料品の空箱でした。被災した11日から松原さんが到着した18日までに
この避難所への物資の供給は1回しかなく、食料品は底をついていました。
松原さん「おそらく気仙沼の体育館の方だけは(物資が)ある。
それはみなさん知っておられるんだけど、そこまでとりに行くすべがない」
翌朝、松原さんらはメンバーを半分、気仙沼市に残し、石巻市へ向かいます。
坂井さんを通じて物資の要請のあった寺を目指します。
高台にある寺はふもとの自宅で生活している被災者に物資を配る場所となっていました。
「富山県の氷見から来ました」
「氷見!?あ、炊き出しですか?」
「え?はい炊き出しで・・」
「あ、要請してもらったやつだ!」
住民から拍手が起こりました。
ここでも物資の提供は1回だけで、自宅に残った食料を持ち寄ったり流れてきた
食料を洗ったりして、みんなで少しずつ分けていたそうです。
松原さんらは水や衣服などの物資を寺に降ろしたあと、炊き出しをしにふもとへ降りました。
うどんがゆであがるまでの間、松原さんが住民に話しかけました。
「本当にみなさん大変でしたね私たちもニュースで知ってびっくりしました。
今原発も大変だし、来るのが怖い人もいるかもしれないけど」
しかし、住民が聞き返します。
「原発って何の話ですか?」。
福島県の原子力発電所の事故を知らなかったのです。
電気もガスも水道も復旧していないこの地区、給水車はこの日の朝にきたそうです。
もちろんあたたかい食事はこの時が初めてでした。
「またがんばって来ますので、がんばってください!」「はい」
このあと松原さんは気仙沼市に戻ります。
炊き出しに並ぶ被災者の服は、すべて氷見から持っていった服に着替えられていました。
持って行った服は古着ばかりでしたが、とても喜ばれたそうです。
炊き出しの列もどんどん増え、あわせておよそ5000人にうどんを振る舞いました。
松原さんと坂井さんの会話「命が助かってよかった」「何もないけど命だけはある」
体育館へ入って「みなさんおはようございます。うどんのほう、どうでしたか?」「おいしかったで~す」
「がんばってまたくるようにしますので、それまでみなさんがんばってください」「は~い!!」
松原さんは全国の知人に呼びかけ、必要な物資などの情報を交換しながら順次、被災地へ物資を送っているということです。
ソース(KNB NEWS):
http://www2.knb.ne.jp/news/20110324_27523.htm
2 ■無題
ありがたいですよo(^-^)o
あたしの会社は仙台空港南側にあります。
あと10分会社をでるのが遅かったら津波にのまれてました。
会社は水没(>_<)
今は協力企業・得意先総出で復旧作業です。
今日も愛知の得意先から大型バスが…
5人だけ乗ってあとはいっぱいの救援物資でした。
ありがたいですよ♪
3 ■素早い人助け
「松原勝久さんらが、今月18日朝、有志7人が支援物資とともに氷見市から宮城県に向かいました。 発起人の松原勝久さんが気仙沼市の友人から要請を受けたからです。 被災した11日から松原さんが到着した18日までに この避難所への物資の供給は1回しかなく、食料品は底をついていました。 」
この記事を読んで震災で緊急的に必要な動きは一週間以内と聞いたことを思い出します。
速やかな動きを尊敬しますね。かずさん、松原さん御苦労さまでした。被災した坂井さん達の復興を祈ります。 高岡 竹中
4 ■わかります
同じ気持ちになりました。
5 ■Re:同感です(ρ°∩°)
>りょうちゃんさん
まさしくその通りですね!出来る事でフォロー頑張りましょう!
6 ■Re:無題
>みぃママさん
間一髪でしたね...今は大変かもしれませんが一緒に力を合わせて行きましょう!
大阪からですが出来る範囲の事で精一杯支援します☆
身体には十分気をつけてください。
7 ■Re:素早い人助け
>高岡竹中さん
松原先生、気を身体に気つけて活動をしてください。みんな応援しています
ジェニス・トルーティングさん、竹田アマニさん、ハズィク・ダルユシュさん、ジェネイ・プライスさんケビン・クペットさん、みんな真剣に考えています。 [ひとがら]
京都に住む米国人翻訳家ジェニス・トルーティングさんは「ブッシュの8年間は、イラク戦争の泥沼化や世界で貧富の差が激しくなるなど暗い時代だった。在日米国人にも『このまま政権が続いたら危ない』との危機感が広がり、政治に関心を持つ人が増えた」と語り、オバマ大統領については「少年時代にインドネシアに住むなど幅広い国の人と直接触れ合う環境で育った。世界の人々を心の底から対等に見ており、空爆などの非人道的な行為をやめてくれるはず」と期待を。
京都大で日本語教育論を研究するエジプト人、竹田アマニさんは「米国はイスラム社会を理解せずにアフガニスタンに攻め込み、大量破壊兵器があるとうそをついてイラクに戦争を仕掛けた」とブッシュ政権を批判。 「アラブのテレビ局は24時間、パレスチナ自治区ガザの惨状を伝えている。米国はイスラエルとの友好のためにアラブ人を犠牲にしている。アラブ人は『米国はアラブに公平でない』と思っており、それだけに新大統領に注目している。アラブ人の目線で中東問題に取り組んでほしい」と。
京都工芸繊維大で学ぶアフガニスタン人のハズィク・ダルユシュさんは「オバマ氏の演説から国際平和を願う思いを感じ、大統領になってほしかった」と話す。祖国では米軍主体の多国籍軍による空爆で多数の民間人が犠牲になり、米国嫌いが強まっているといい、「オバマ氏が主張するアフガニスタンの米兵増派より、現地の軍隊や警察を強化してほしい。余った資金を学校建設や井戸掘りに回してもらいたい」と注文を。
留学生のジェネイ・プライスさんは同じ黒人で初の大統領を歓迎して「他文化を受け入れられる寛容な国であることを世界に示してほしい。人種差別を少なくする政策にも期待している」と話し、同じくケビン・クペットさんは「イラク戦争などに浪費したお金を国内経済の立て直しに使い、社会保障の充実にも役立てて」と内政の充実を訴えました。
タッキー、ドッキリ発言「愛しまくってます」1位 [ひとがら]
上演中の主演舞台「滝沢革命」のテーマ曲として、自ら作詞、作曲を手掛けた自信作。ソロデビュー1作目で首位を獲得したのは、06年7月にKinKi Kidsの堂本光一さん(30)が達成して以来です。
ジャニーズ事務所の後輩約60人に1万円ずつお年玉を渡したことが話題になったタッキーさんは「今回は皆さんからすてきなお年玉を頂きまして、ありがとうございました」とコメント。また昨年の紅白歌合戦で話題を呼んだ秋元順子さん(61)の「愛のままで…」が2位に上昇しました。
発売イベントを東京・六本木ヒルズの展望台で開催。ファン約200人の前で“愛”をたっぷり込めて歌い上げたタッキー自身は「愛されるより愛したい。最近も愛しまくってます」とドッキリ発言。しかしその意味を聞かれると「女性だけでなく舞台の仲間とかいろんな人。愛がないと何もできないですから」とさわやかに答えていたんです。いいわね。素敵です
マザーテレサの生きざま [ひとがら]
間寛平さん マラソンとヨットでの世界一周に出発 [ひとがら]
間寛平さん マラソンとヨットでの世界一周に出発
人がよさそう、そしてやさしそう、そんな雰囲気をもつお笑いタレントといえば、この方、間寛平さん 彼はマラソンとヨットで約3万6000キロの世界一周にチャレンジする「間寛平アースマラソン」に挑みます。昨日、大阪市中央区のなんばグランド花月からスタートしました。2年半をかけて世界一周するんですよ。途中で帰国せず、継続して一周するのは世界初ということです。 世界中のマラソンに挑んできた寛平さんが今回挑むのは、太平洋、アメリカ大陸、大西洋、ヨーロッパ、アジアを回るマラソン2万キロ、ヨット1万6000キロ。本番公演中に出発式があり、満員の観客とハイタッチしながら走り出しました。元日に千葉からヨットに乗る予定。正月はテレビが楽しみです。 出発式前の会見で間さんは「どんなことがあっても何年かかっても、帰ってこようという気持ちです。笑いながら走ります」と力強く抱負を語りました。すてき。 |
石川遼 , 錦織圭 , 太田雄貴 みんなすごい男の子 [ひとがら]
石川遼くんは、昨年、15歳8カ月での世界最年少ツアー優勝を果たし、「ハニカミ王子」の愛称とともに一躍脚光を浴びました。2008年は年明け1月に史上最年少16歳でのプロ転向を表明し、“高校生プロゴルファー”としてさらなる注目を集めることとなったが、開幕戦で5位に入った後はプロの壁に苦悩。5月に4戦連続予選落ち、8月にツアー外競技の関西オープンでプロ初優勝を果たすも、9月半ばからはホスト大会3戦連続予選落ちと、それでも猛特訓の成果が現れ、10月の日本オープンで2位。そして迎えた11月のマイナビABCチャンピオンシップ最終日、首位と3打差でスタートした石川は、終盤の連続バーディーで初日からトップを走った深堀圭一郎を逆転し、プロ転向後初のツアー優勝を飾った。多大な重圧を乗り越えてつかんだ17歳1カ月での勝利は、プロ最年少記録となった。信条の“攻めのゴルフ”を完全に取り戻した石川は、その後の大会でも上位に食い込み、プロ1年目にして年間獲得賞金1億円を突破。これは日本スポーツ界でも史上最年少となる偉業達成で、ゴルフ界の超新星がまたひとつ大きな勲章を手にしたのです。
錦織圭くんは、2008年2月、米国フロリダ州で行われたデルレイビーチ国際選手権で、当時世界ランク12位のジェームズ・ブレーク(米国)を破りツアー初優勝を果たした錦織圭。日本人としては92年の松岡修三以来2人目となる快挙で、新しいスターへと名乗りを上げ、自身の世界ランクを一気に100位以内へと急上昇させると、6月のウィンブルドンでグランドスラムデビュー、8月には北京五輪にも出場
「エア・ケイ」と呼ばれるジャンピングフォアハンドを武器に、多彩なショットで多くのテニスファンを魅了。その華麗なプレーで世界中を震撼(しんかん)させた。9月の全米オープンでは、当時世界ランク4位だったダビド・フェレール(スペイン)を下し、日本人としては71年ぶりとなる4回戦進出を果たし、今季289位からスタートした世界ランクも、11月の時点で63位まで伸ばし、テニス界期待の“王子”は、今後もさらなる飛躍を果たし、私たちファンを楽しませてくれるでしょう。
ひとがらでは、いちばんいいと思うのが、フェンシングの太田雄貴くん
北京五輪フェンシング男子フルーレ個人銀メダル(日本初のフェンシングメダルでした。)就職も決まったし、家族を大切にしそう。一番親しみも感じます。
これを書いてるとすごいおばちゃんファンになった気がします。やっぱり年配のおじさまのほうが似合っているかも。
ノーベル物理学賞 「いちゃもん屋」上下関係嫌った 益川敏英 名誉教授 [ひとがら]
こんな上司がほしいと思うのは私だけですか。
「理論屋」。益川敏英さんは、こう自称する一方で「先生」と呼ばれるのを嫌うといいます。「たとえ同じ研究室でも上下関係は好きじゃない」。気さくな人柄で研究者仲間や後輩からの人望も厚いそうです。
名古屋市内の砂糖問屋の長男として生まれた。物理学者としての素養は小学生のころ、電気技師の経験のある父、一郎さん(故人)にはぐくまれ、「銭湯に入った帰り道、夜空を見ながら月食はなぜ起きるのかとか、電気モーターの仕組みなんかを教えてくれるんです。おかげで理科がすごく好きになりましたね」
中学、高校時代から数学や物理の成績はずば抜けていて、素粒子論との出合いは高校1年のとき。名古屋大教授だった坂田昌一博士が発表した素粒子理論「坂田モデル」を伝える新聞記事を読んだのがきっかけだそうです
「身近な場所で世界的な科学が生まれていることに感動し、名古屋大に入ろうと思ったのもこの時です」
入学後、友人や先輩をつかまえては大声で議論を挑み、「理論屋」の本領を発揮。同級生は「こっちが正しくても言い負かされてしまう。愛情を込めて『いちゃもんの益川』と名付けられたそうですよ
60年安保闘争が盛んだった時代で、学生運動のデモにも参加、そんな時でも、学生服のポケットにはいつも物理の本が入っていたとあります。
国語と外国語は大の苦手だった益川さん。大学院入試のドイツ語の答案は白紙だった。それでも数学と物理のセンスが認められて見事合格し、念願の坂田研究室の一員に。関係者は「独創的な発想をする若者が入ってきたと感心した」と振り返ったそうです。
院生時代は「勉強が一番楽しかった時期」。机に向かう際、癖でかんでいた左手の人さし指は、今も硬くなったまま。
平成9年、講演中に脳内出血で倒れ、入院生活を余儀なくされ、退院後はできるだけ歩くよう気遣うが、後遺症で「メモなしでは記憶がぽっかりと抜けるときがある」と豪快に笑ったということです。 親しみありますね。
行けない自分達は、しっかり元気に働いて、稼いで義援金なり物質を送りたいです。
凹んでたら、亡くなられた方に悪いですから。
力いっぱい(」゜□゜)」幸あれ~